瞬間的にではなく、継続的に業績を残す人物は、理想主義と現実主義のバランス感覚が優れています。
高邁な理想を掲げて目指していくと同時に、目の前に横たわる現実から目を背けることなく、その現実と向き合って、その現実を克服することに集中しながら理想を実現しようとします。
理想主義と現実主義のバランス
理想主義と現実主義は大辞林では以下のように定義されています。
理想主義
(1) 現実にとどまるのではなく,理想の実現をめざそうとする立場,生き方。
(2) 自然をあるがままに描かず,様式化し,理想化して表現しようとする美術上の立場。現実主義
(1) 現実を重視する態度。リアリズム。
(2) 理想やたてまえにこだわらず,現実に即応して事を処理しようとする態度。リアリズム。引用元:大辞林第三版
この定義を前提に話を進めていきたいと思います。
経営の神様と呼ばれた松下幸之助は水道哲学と呼ばれる高邁な理想を掲げました。公園の水道が無料なのは価格が安いからで、商品も多くつくれば公園の水道のように無料に近くできるというものです。
松下幸之助はこのような理想を掲げて良い製品を作ることに注力したのですが、それと同時に、より早く効率的に販売をするために問屋・代理店を整理し、松下系列の販売店網を全国に作り上げました。
アップルコンピュータのスティーブ・ジョブズはiphone、ipad、MACなどの時代を変えるような商品を世に送り出しました。
その製品の開発・製造の段階では理想を強烈に追い求めていますが、それができたからと言って満足することはなく、世界の隅々に行き渡らせるために、プローモーションを含めた販売戦略にもこだわりました。
誰もが欲しがるような最高の商品、最高の技術を作り上げることを志向しながらも、それを作るだけで満足することなく、より多くの人に届けるために目の前の現実の問題をクリアし、結果を出すことにも強いこだわりを持っています。
理想があるからこそ向上心を強く持つことができ、努力もできるのですが、その目標ばかりを見て、目の前の結果や現実を軽視してしまうケースも少なくありません。
理想を追求しているプロセスだから目の前の結果は度外視するという姿勢は、問題の先延ばしにつながることがあります。
また逆に現実ばかりを見つめた結果、その難しさと困難さに打ちひしがれてしまい、現実に妥協して大きな目標を掲げられなくなると、大きな成長は見込めなくなってしまいます。
このように理想主義と現実主義のどちらかに大きく偏るとバランスが悪くなるのですが、イチローはこの2つを見事に自分の中で消化しバランスを保つことで、素晴らしい成績を残しています。
イチローの理想と現実のバランス感覚
イチローは日米通算4257安打となり、メジャーリーグの通算最多安打記録であるピート・ローズの記録を抜いた際に『米国に行く時も「首位打者になってみたい」と言って笑われた。』と記者会見で話しました。
その当時は到底、日本人には達成できない夢、理想と思われていたのですが、それを掲げて見事に2度達成しているイチローですが、非常に現実的なアプローチをとっています。
イチローはテレビのインタビューで理想の打球は?と問われ、「ラインドライブのかかった早く地面に落ちる打球」と述べ、その理由として「自分が追い求めているのはヒットで、その確率を高めるから」と説明するなど、現実的なところから理想の打球について述べています。
さらにイチローのリアリストな面を現しているのが「内野安打」です。
内野安打には良い打球が内野手の好守により捕球されたケースもあるのですが、それより遥かに多いのが当たり損ねが良いところに飛んで運良くヒットになるというものです。
しかし、イチローは「狙って内野安打を打っている」「調子がいい時ほど内野安打がでる」と話し、その技術に関してアメリカメディアにも話しているため、シアトル・タイムズのLarry Stoneも”The art of the infield single is a subject Ichiro is eager to talk about.(内野安打を打つ技術はイチローがしきりに話したがるテーマだ。)”と述べています。
実際にイチローの通算での内野安打率は14.7%、MLBのシーズン最多安打を記録した2004年には21.8%とリーグ平均の7-8%を大きく上回るなど、運の良さで片付けれないレベルとなっています。
イチロー本人が理想の打球は「ラインドライブ」と話していますので、それができる確率を高めるバットコントロールなどの技術を身につけようと練習しているはずです。
実際にイチローは150キロ超で来るボールのどの部分にバットが当たってヒットになったのかを答えられるほどの打撃技術を身につけています。
しかし、その打撃技術によりバットの芯でボールを捉えるだけでなく、意図的に打球をボテボテにしたり、野手の間に飛ばすことでヒットになる確率を高め、より多くのヒットを打つことをイチローは選んでいます。
そのイチローと3度の三冠王に輝いた落合博満の2人がともに「天才」と呼んだ選手が元広島カープの前田智徳です。
打撃技術の高さとスイングの美しさゆえに私の好きな選手の1人でもあるのですが、残念ながら打撃のタイトルは一つも獲得していません。
アキレス腱断裂による故障の影響があったことは間違いないのですが、やや理想主義に偏っていた面が影響した可能性もあります。
「試合はオマケみたいなもん。大事なんは、毎日同じ練習を続けること」数少ない野球の会話の中で聞くことのできた前田の考え。目の前の結果にとらわれることなく、いつまでも自分の理想を追い続けることが大事だと。この短い発言には、こうした意図があるのではないか。かつてはホームランを打っても、「理想の打球じゃない」と言って首をかしげていた前田。求めるのは結果ではなく、理想なのだ。
一方のイチローは意図的にボテボテの打球を打ってでも、試合で数多くのヒットを打つことを選びました。
そのため4000本安打を達成した時の記者会見では『(「きれいなヒットで決めた」と言われて)どんなヒットも僕らしくなると、レフトスタンドへのホームラン以外は、僕らしいと思っていましたけど、こうやって皆さんが注目してくれている中で、内野安打とかだと、また文句を言う人もいるし、良かったと思います』と話しています。
落合博満は優勝の可能性がなくなったチーム同士の消化試合で、経験を積ませるために登板している一軍半の若い投手を徹底的に打ちこんでタイトルを獲得しています。
前田智徳は理想の打球に強いこだわりを持ち、卓越した技術を身に着けたことで、イチローと落合博満をして「天才」と呼ばせました。しかし、打撃タイトルを獲得しているのは理想の打撃、理想の打球を追究しながらも、結果と現実も徹底的に追究した2人でした。
ただ、前田智徳も現役の最後の2年間は美しいライナーで打球を飛ばすことではなく、野手の間にボールを打つことに取り組んだようで、その2年間は代打のみでの出場でありながら打率.333とキャリア通算打率を上回る素晴らしい成績を残しています。(参考:打撃投手 天才バッターの恋人と呼ばれた男たち)
もっと早くこれに取り組んでいれば打撃タイトルを獲れたのではないかと思わされます。
松山英樹の理想と現実のバランス感覚
松山英樹は非常に理想を高く設定し、日本人初のメジャー制覇を果たすだけでなく、4つのメジャーを全部勝ちたいと話しています。
マスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロゴルフ選手権という4つのメジャーを全部制すキャリアグランドスラムを達成したことがあるのは、ジーン・サラゼン、ベン・ホーガン、ゲーリー・プレーヤー、ジャック・ニクラス、タイガー・ウッズだけです。
これを目標とすることは、日本人というだけでなく世界中のゴルファーにとって憧れと言える領域を目標としていることになりますので、かなり高い理想、目標設定です。
それを成し遂げようと、PGAツアーでも屈指の練習量をこなしていて、技術面に関しても非常に高い理想を設定している松山英樹です。
PGAツアーの2015-16シーズンを振り返って以下のように話しています。
(自己最高の年間成績について)その点は、何も思わないですね。結果や成績より、自分が思ったプレーができるようにしたい。ショットも、パットも。それができれば、結果的に池に入ったり、3パットしたりしても納得できますから。ボールは止まっているので、自分のプレーを(自分で)コントロールできるようにしたい」
このコメントを見ると「結果というよりも、自分が納得できるショットとパットがしたい」と結果を度外視しているようにも受け取れます。
非常に理想主義的な面がある松山英樹なのですが、かといってそれだけに偏っているわけではありません。
マスターズ2015の直前に行われた芹澤信雄さんによるインタビュー動画では「ゴルフはスコアをまとめる競技」で、ショットの飛距離を競うのではなく良いスコアを出すことが重要だと話しています。
全米オープン、全英オープンで連続予選落ちした後の、全米プロゴルフ選手権では「アイアンを戻したのは気分転換。調子が悪くて苦しんだというより、全英のデータ(パーオン率28%)を見てビックリするほど悪かったので」と非常に現実的な選択もしています。
ツアーチャンピオンシップ2016の開幕前にもショットが絶不調でしたが、「必死にパーを拾う、粘りのゴルフをしていきます」と話しています。
良いショットを打てれば結果はどうであれ納得できると話す一方で、実際の試合ではショットやパットの状態を気にはしながらも、それ以上に良い結果を出すことにも非常にこだわっていることが、これらのコメントからもわかります。
このように理想主義的でありながらも、現実主義的な面もバランス良く併せ持っているため、「自分の思い描くような理想のショットが打てないから」と気持ちが切れて集中力を失ったり、諦めてしまったりということが極端に少ない松山英樹です。
このバランス感覚の良さが技術面では世界最高とも言われるアイアンショットを作る土台となり、成績面ではPGAツアーでも高い予選通過率、トップクラスのトップ10、トップ25フィニッシュ回数がなせる要因の一つだと考えられます。
イチローは理想を追求しながらも、結果にも強くこだわるがゆえに、他の選手が「芯に当たらなかった」「運が良かった」と片付けてしまうような詰まった打球さえも、自分でコントロールしてヒットにできないだろうかと考え努力した結果、他のどの選手も語れない内野安打の技術を身につけ、図抜けた成績を残しました。
ショットの調子が悪くてもスコアをまとめる能力が優れていることからも、松山英樹が理想と現実のバランスをとる感覚がとれている選手であることはうかがい知れます。
そしてこのようなバランス感覚をプロ転向直後の21歳にして持っていることを感じさせるコメントが多く、それが松山英樹に私が強く興味を惹かれた理由でもあります。
ですが、まだイチローほどには自分にとってのベストのバランスを見出していないようにも見えます。
松山英樹が自身の掲げる4つのメジャー制覇を果たすために、どのような理想主義と現実主義のバランスを見出していくのかは、個人的に注目し楽しみにしているところです。